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gift○水死芸人M太郎 / 時計 ~僕がいる理由~

 観たい舞台が重なったので昼夜の2本立てで予定を組んだ。主に経済的な理由から。
 朝に弱い僕だがそこそこ頑張って10時半にバス停に行くと10時半は満席、それどころか次の11時も満席だと言う。この時点で金がかかっても特急、という選択肢に思い至らなければいけなかった。「じゃ、次のバスを」実はほぼ30分おきに出るバスが昼前後の時間帯だけ45分間隔になるのだ。次のバスは11時45分。新宿までの所要時間は[スムースに行って]2時間10分。つまり新宿に着く時点でもう開演時刻ではないか。新宿から会場までは更に最低でも30分はかかる。なんて事に乗車手続きに入る頃やっと気づくぐらい午前中の僕はアタマが働かない。じゃあ午後はどうなのか、訊くの禁止。

gift○水死芸人M太郎
 *nude gabriel design*の旗揚げ公演という事になるのだが、観客的にはandroid nude poseの出直し公演という位置づけで期待していた。アンドロを始めた時の初心に立ち返って、彼らは再び動き出した…もしかしたら本人的には全く違うのかも知れない。アンドロでやろうとした事はやり尽くしたから解散し、また違う事をしようとしたらたまたま同じ人が賛同して元のユニットで再開なのかも知れない。そのへんの事情は部外者になったのでさっぱり解らない。じゃあ関係者だった頃の事なら解るのか…だから訊くなって。みんなそれぞれの思いを抱いて集うのよ。その「思い」のタケを全て吐露し合うばかりじゃないのがオトナのユニットってもんさね。
 アンドロの頃の彼らの舞台は極めてテンションが高く、上演時間は1時間が限度だった。90分もやったら役者だけでなく客ももたない。だから今回の舞台も長くて1時間だろう。それに30分遅刻するという事がどれ程致命的かぐらいは想像がつく。そも、舞台を途中から観るのは好きじゃない。しかし、途中からでも入らなければ予約したチケット料を受け取ってはくれまい。どうせ「観られなかった」舞台だから途中から観たところで「観なかった」事に変わりはない。それでも彼らがどんな舞台を作ったのかぐらいは見ておきたい。ならば今日は途中からでも入るぞ。
 前の時にも感じたのだが、アトリエセンティオは音がいい。天井にヤマハの小さなスピーカがふたつついてるだけなのだが、とてもすっきりした音がする。低音は勿論ろくに出ない。これについては増強も可能だろうが、住宅街でもあり、あまり重低音を響かせると別の不都合があると思うので、潔く重低音をすっぱり諦めたこの音にはむしろ好感を持った。
 初心、と思ったら螺旋階段を1階上がった所が今度のスタート位置のように思えた。舞台にあるのは真ん中に見慣れた便器、左奥にはかつてわがマーチで400Kgを松本まで運んだ白い砂と、僕がこさえた無駄に頑丈で分解不可の2×4角材の十字架。どれも懐かしい物ばかり。あとは役者。アンドロの頃は暗い舞台が多かったが今回はかなり明るくもしていた。音響・照明とも手馴れた感じでさりげなく自然に舞台に溶けていた。そのせいもあるのだろうか、舞台がヴィジュアルとしてとても美しく感じた。白い床に白い壁、そこに白い砂と白い便器、真っ黒い十字架。この虚飾を極限まで削ぎ落とした殺風景な舞台にこそ現出せし得る「何か」を彼らは知っているのだろう。
 最初から観られなかったのがかえすがえすも口惜しい。ごめんなさい。

時計 ~僕がいる理由~>
 Air Studioプロデュース公演。前の公演から4ヶ月。年3回ペースかい?かなりハイペースだな。いや公演自体はそうでもないけど、他の舞台にも出てるえみ子さんのペースが。
 今回のタイトルロールは「時計」。父が作った腕時計は誕生記念長男に譲られ、やがて長男はそれを弟に託し、次男は自分の息子にそれを遺す。会った事もない祖父の「仕事」は半世紀以上の時を超えて尚、孫の腕で動作し続けるのだった。
 今回も「記号」バリバリの舞台だったが、記号の使い方が洗練されていて、分速1年の早巻きの物語をとても解り易く見せてくれた。舞台上で役者が自分で「老けメイク」を施し、どんどん年を取っていく様は「芝居ってこんな事もできるんだ!」という物語とは関係ない所でも感動をくれた。
 我らがえみ子さんは舞台の最初の頃に誕生し、幼児から老衰でもうそろそろ順番が来る、というあたりまで一気に駆け抜ける。当然だが、今まで(多分、誰も)見た事のない山岸恵美子を見られた。これも大収穫だった。今日はどうしてもカスミ草という気分は外れてはいなかった。
 正直、早巻き過ぎてストーリーもドラマも物凄い速さでそれこそ無情に駆け去っていく。個々のストーリーやドラマはあらすじ以下に端折られる。しかし、そこには確かに人々の「生」と「死」と、その間の「人生」があり、それらの積み重ねとしての「歴史」すら現れてくる。終演後「なんか、凄いものを見た」という気分だけが置き去りにされたように残るのだ。この未経験の余韻は決して不快なものではなかった。
 演出的には一発芸的な飛び道具かも知れない。が、この「凄いものを見せてくれた」という体験は僕の「観劇体験」の中に長く残りそうな気がする。
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by sompi1 | 2008-07-12 03:42 | レヴュー | Trackback | Comments(0)